異国の地で咲く桜に宿る日本人の心

中央アジアの国、ウズベキスタンの首都・タシケント。
今年4月、そこは満開の桜で彩られていた。
市内の劇場、墓地などで咲き誇る1000本もの桜には、知られざる日本人の精神が宿っていた。
今なお、語り継がれる歴史に隠された日本人たちの「魂の結晶」とは…


今から72年前の8月15日、第二次世界大戦で日本は無条件降伏。
戦闘機の整備部隊の隊長だった永田行夫は、200名あまりの部下と共に、ソ連軍の捕虜となった。
投降した日本兵をソ連各地に送り込み、強制労働させる。
シベリア抑留のはじまりだった。


永田の部隊が送り込まれたのは、当時、ソ連の一部であったウズベキスタン共和国にある第4ラーゲリーと呼ばれる収容所。
そこで従事する仕事は、ソ連共産党の威信を示すためのオペラハウス「ナボイ劇場」の建設。
長い戦争に疲れ、ようやく帰国できると思っていた捕虜たちは、先の見えない状況に生きる希望を失いかけていた。
さらに…現地のウズベキスタンの人たちから「戦争で中国人を殺しまくったらしいな?おまえらはナチスと同じ鬼畜だ」と罵られた。
永田の部隊は整備部隊であったが、彼らが整備した戦闘機や爆撃機が多くの建物を破壊し、人命を奪ったのは事実だった。


そんな彼らの唯一の楽しみは、食事だった。
だが、支給される食事は、黒パンなど粗末なものばかり。
食べ盛りの若者たちには到底足りる量ではなかった。
さらに、ノルマが達成できない者は食事の量を容赦なく減らされた。
そんな状況で、揉め事も絶えなかった。


ある日、永田はみんなに、こう訴えた。
「我々の仕事は、あの劇場を2年以内に完成させることだ。
だが本当の使命は全員が無事で日本に帰国することだ。そして家族と再会することだ。その為に全員で協力しあい、気持ちを一つにしてほしい。こんな時こそ、和の心を思い出そう。」

永田は食事の量の多いものが、少ないものに分け与え、全員の量を平等にするよう提案。
お互いを思いやる和の心を訴え、収容所を一つにまとめようとしたのだ。


だが…そんなある日のことだった。
収容所の所長ににノルマを達成していない者たちに食事を分配していることがバレてしまったのだ。
ソ連共産党の方針に逆らえば、牢に監禁されるなどの罰が与えられ、下手をすれば処刑される恐れもあった。


しかし、永田はこう言い返した。
「ソ連の社会主義政策では、働いた上で一度貰った物は個人の自由で処分できる。それもソ連の社会主義のすばらしいところでありますよね?」
それを聞いた所長は「確かに君の言うことは筋が通っている」と答えた。
さらに永田は「最初から平等に分配していただければ、分ける手間が省けるのですが…」という提案までしたのだ!

永田についていけば、日本に生きて帰れるかもしれない…第4ラーゲリに希望の光が差した。
だが、永田はこれで満足したわけではなかった。
永田には、全員が生きて帰国する以外にもう一つの目標があった。


そんな頃、ソ連は劇場の建設を急がせるため、二百数十名の新たな捕虜を第4ラーゲリに送り込んだ。
その中に、当時21歳の若松律衛(りつえ)少尉がいた。
指導部は大学の建築家出身の若松を現場の総監督に指名した。
しかし…若松はそれを拒否。


なぜなら…永田班は一生懸命働いている姿をソ連に見せつけて帰国を早めようとしていると噂になっているというのだ。
その噂に他の班の者たちは反発を覚えていたのだ。
そんな彼らに永田は、こう言った。
「我々はソ連に評価されたいがために必死にやっているわけじゃない。世界一の劇場を完成させることで、取り戻して貰いたいんだ。戦争で失ってしまった我々日本人の誇りを」

その翌日だった。
若松が監督を引き受けると申し出たのだ。
建築知識の豊富な若松が監督になったことで、建築のスピードは格段に上がった。


劇場は刻一刻と完成に近づいていった。
だが…粗末な食事を分け合い、何とか耐えてきた日本人の捕虜たちの疲労はピークに達しようとしていた。

そんな頃だった。
ウズベキスタン人たちが、食事を分けてくれたのだ。
捕虜に決められた食事以外を与えれば、ウズベキスタン人たちも罰せられる危険があった。
だが…必死に働く日本人たちを見ていて、日本はナチスと同じ鬼畜だと思っていたことが間違いだったと気がついたというのだ。
世界一の劇場を作りたい、そんな思いで必死に働くうちに…ウズベキスタン人との心の垣根は消えていった。
そして…日本の桜をもう一度見たいという想いを胸に仕事をする日本人捕虜たち。 共に作業に従事しているウズベキスタン人たちにも、日本の桜を見せたいと話していた。

劇場の完成も間近に迫ったある日のこと…
永尾が、高所作業中に落下…即死だった。
遺体は即座にソ連兵に撤去されていった。
捕虜が強制労働の末に死亡した…ソ連にとっては表沙汰にはできない事実だった。
だが、その翌朝のことだった…
そこには、永尾の死を悼み、花を手向けるウズベキスタンの人々の姿があった。

その2ヶ月後、ナボイ劇場は2年の時を経て、ついに完成した。
建設に携わった日本人捕虜たちの為に、内覧会が開かれた。
美しい装飾に彩られた劇場は、世界最高峰のオペラハウスと呼ぶにふさわしかった。
それは、ウズベキスタン人と共に血と汗を流し、日本人としての誇りを胸に、持てる技能の全てを注いだ…彼らの魂の結晶だった。


ソ連全土で、60万人以上の日本抑留者のうち、9万人が死亡したと言われる中で、タシケント第4ラーゲリで亡くなったのは、列車事故にあった1名と、転落死した永尾清、合わせて2名だけだった。
その後、永田以下455名は全員日本へ帰国。
しかし、のちに作られた劇場建設の記録映画には、日本人捕虜の姿は一切描かれていなかった。


さらにそれから7年後には、ソ連が日本人捕虜の墓地を各共和国2つまでと制限し、他は潰して更地にするように指令。
強制労働の結果、多くの犠牲が出た事実を隠蔽しようとしたのだ。
だが、ウズベキスタンの人々はその命令を断固拒否。
国内に点在する17箇所の日本人墓地を守り続けた。

永田班に倣い、他の日本人捕虜たちも、水力発電や運河の建設など、インフラ整備に全力で貢献。
その功績をウズベキスタンの人々は決して忘れなかったのだ。


後世へと伝えられた誇り…だが、奇跡はこれだけではない。
『もう一度、日本の桜が見たい』そう願いながら、命を散らした日本人捕虜たちのために…
15年前、首都タシケントの市民の要望により、日本から持ち込まれた1000本あまりの桜がナボイ劇場や日本人墓地などに植樹されたのだ。
そして今年も日本人の誇りが宿る桜は、満開の花を咲かせた。


ナボイ劇場にあるプレートには、こう刻まれている。
『1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した』
70年前、日本兵たちが抱いた誇りは、ウズベキスタンの地で褪せることなく咲き続ける。

永田さんが日本に帰国後、真っ先にしたこと。
それは…457名の住所録を作成することだった。
だが、これはただの住所録ではない。
帰国時、メモを所持しているとスパイとみなされるため、全員分の名前と住所を全て暗記したというのだ!

帰国後、記憶を元に住所録を作成。
それにより、年に一度、かつての戦友たちと集まることができたという。


帰国から40年後には、ナボイ劇場でオペラを鑑賞した。
共に建設に携わったアサードフとも再会し、念願だった永尾清さんの墓参りも果たした。

日本人の心、そして誇りが宿る桜。
美しき精神とともに、来年も花開くだろう…。

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